コマヤド77**

雑な文

僕と私のポップフライスター

昭和のある日

1985年。中学2年生だった僕は,母の営む小さな居酒屋の手伝いをしていた。手伝いといっても母が作った料理を皿に盛ったり,客が帰ったあとのテーブルをダラダラと片付けたり,数枚の皿をカチャカチャ洗う程度のものだ。アルバイト代という名の小遣いは10回1000円で特に喜びもなく,母と客が話しているのをタバコの煙の中でぼんやりと聞いているだけの日もあった。

 

引き戸がガラガラとなって,水道局に務める常連のおじさんが「おう」と一言誰かに向かっていい,いつもの席に座る。誰に断るでもなく14インチの小さなブラウン管テレビの電源を入れる。母が焼酎のボトルをおじさんの前に置く。小さな画面には横浜スタジアムが映っていて,試合は中盤,大洋の投手が誰だったかは思い出せないが,2アウト3塁,打席には原辰徳が立っている。

 

原は顎を肩にのせるような構えからボール球を数球見逃す。大洋の名もない投手は三塁走者に恨みでもあるかのように何度も牽制し,睨みつけている。当時野球部だった僕は思春期特有の小さな反発なのか,巨人から大洋に応援チームを乗り換えた頃で「こりゃ打たれるな」とブラウン管から目を逸らそうとしていた。が,おじさんは全く野球の分からぬ母に「原はダメだ。チャンスに弱い。中畑に回せ。中畑がなんとかすりゃあ,その後ろには吉村がいる。彼は天才だ」と氷を砕く母に向かって叫んでいた。その直後,原辰徳は高めのストレートをつまらせ遊飛に倒れる。原はその高く高く舞い上がったポップフライを見上げている。「ほらな」と言葉を捨て置く水道局のおじさん。背番号8がベンチに戻る姿が流れ,CMに代わる。

 

「でも原辰徳はいい男だよねえ」と,母は画面を見ずに水道局のおじさんに話しかける。おじさんは堰を切ったように中畑と吉村を褒め,原の悪口を続ける。試合は巨人が勝ちそうだったが,一部地域に延長という概念はなく,5分枠のニュースが流れるのと同時にテレビは消された。水道局のおじさんは水割りを数杯あけ,少し仕事の話を母か,あるいは自分自身に向かって話し,気づくと消え去っていた。

 

「原はチャンスに弱い。アイツのいう通りだ」彼の席を片付けながら,僕はその日初めて母に話しかける。「野球部でも人気ないよ。吉村は凄く人気がある」と続ける。母は少し黙った後で「あなたは誰が好きなの?」と問う。僕は少し考えたけれど,何も答えずに皿をカチャカチャと洗い出す。引き戸がガラガラと音を立て,新しいお客さんがやってくる。

 

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平成のある日 

2018年。私は横浜スタジアム1塁側スタンドでビールをのんでいた。試合はワンサイドでベイスターズはボロボロにやられていた。それでも7回に惰性で打ち上がる風船たちを待っていた。私の娘も試合途中から携帯ゲーム機の画面しか見ていなかったのだが,7回の訪れを彼女に告げると,一生懸命に風船を膨らまそうとし,だがやはりまだうまく出来ず,結局私に頼み,皆と同じタイミングで真っ暗な空に向かって笑顔で放り投げていた。一通り満足したのか,また携帯ゲーム機に目を戻し,だがしばらくしてひとこと唐突に,私にこう言った。

 

パパはどのせんしゅがすきなの?

 

私は先頭打者で打席に向かう筒香を眺めていた。バッターボックスに入るまでの一連の仕草は生々しく,だが美しかった。娘の言葉には答えず,彼女の肩に手を置き「一緒に彼の打席をみないか」と提案した。横浜が誇る大砲。すごいホームランを打つ男。彼は皆が認める大スターなんだ。君も一緒にみたら,皆みたいに彼を好きになるかもしれないよ。まさに,今まさに,誰も見たことがないようなホームランを打つかもしれないよ。ああ試合は負けるのかな。山井だしな。でもそんなのパパどうでもいいんだ。彼の今の姿を,パパと一緒にみないか?

 

娘は携帯ゲーム機を閉じ,うんと頷き,徐ろに靴を脱ぎ捨て席の上に立ち上がって歌った。筒香の応援歌だ。GO!GO!筒香!わかりやすい箇所だけを,小さな体をフルに使って歌い出す。慌てて席から下ろすが,謎の踊り付きのせいで周りのお客さんにぶつかる。私は更に慌てて四方に謝り,それを笑顔で許してくれる隣人たちを見て,娘はよりテンションを上げていく。キッズサイズのユニフォームがだいぶ小さくなってきたな,なんて思っていたら,筒香がぶぶうんっとバットを振った。ど真ん中にきたフォークボールを振り抜いた。その打球はハマスタの夜空に,尾を引くように高く高くどこまでも真上に上がった。ポップフライ。捕手がこぼしそうになると少しどよめきが起きたが,捕邪飛が成立するとどよめきはため息に変わった。その瞬間

 

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斜め前に水道局のおじさんが座っている。彼は当時のように「な?ダメだったろ?」と誰かに,いや自分に向かって叫んでいる。中学生の僕が隣の隣からおじさんにいう。「ダメじゃないよ!チャンスに弱いってなんだよ!今のスイングだって!ぶぶうんって!すごいだろ!すごいんだよ!」水道局のおじさんはニコニコと私を見て,そして消えた。ビールサーバをかついだ母が新しいビールを私に注ぎながら「原辰徳はいい男だねえ」という。私は母にいう。「あの打席はポップフライだった。でも紙一重だったんだ。母さんには分からないかもしれない。ポップフライにもいろいろあってでもあれは紙一重なんだよ。母さん,僕ね」

 

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僕と私は

キリンビール前回売上第3位の腕章をした女の子に1000円札を渡し,小銭を返してもらう。これをのんだら帰ろうね,と娘に話しかける。携帯ゲーム機に目を落としたまま彼女はいう。きっと勝つから最後までいようよ。最終回にダメ押しされ湧き上がる三塁側を見つつ,ママに怒られるから帰ろうねと伝え,ビールをのみ干し,周りの方々にお礼をいい,関内駅に向かう途中一年ぶりに母へ電話をかけた。同じ話を何度もする母の言葉を遮って,僕は言った。

 

「母さん,僕ね,中学生の頃,ホントは原辰徳が好きだったんだ」 

母は笑いながら少し嬉しそうにいう。

「そんなの知ってたよ」

娘が横から叫ぶ。

「おばあちゃん!今はツッツだよ!つつごーっていうの!GO!GO!つ,つ,ごー!」

 

僕と私は笑いながら電話を切り,筒香の正しい応援歌を娘と歌いながら駅へ向かった。