Jellyfish
終電を降り,いつものコンビニエンス・ストアで,いつもの買い物を,いつもの店員相手に行う。三十代後半に見えるアルバイトの彼に,どんな事情があるのかは分からない。だが僕は何故か彼に対していつも,同情と怒りを入り混ぜたような感覚を覚える。そしてその気持ちを押し出すように,そして彼の明日のために,財布から小銭を出して支払う。ありがとうございましたー,という彼の抑揚のない呪文のような感謝を背中に唱えられ,僕は自分が如何に薄暗い気持ちでコウコウとしたコンビニエンス・ストアの蛍光灯に照らされていたのかを自覚する。逃げ出すように退出し,理由もなく夜の空を眺める。
家の重いドアを開けると深い闇が広がっている。ガシャガシャと,コンビニエンス・ストアのビニール袋の音だけが闇の中に広がる。その音は毎回必要以上に広がり,僕の大切なものをすり減らせる。僕は電気をつけず,いつもの場所に座り,買ってきたビールを開け,一口飲んでみる。缶の冷たさが唇を殺し,炭酸の刺激が喉の奥を殺す。味などない。なにもない。
Yシャツを脱ぎ捨て,ふと思いついてテレビを付けてみる。何かが映る。見覚えのある顔や場所や商品が映る。僕はこの世界の住人であることを確認し,薄暗い気持ちを加速させる。糞みたいな少女たちがきゃっきゃっと何かの商品を手に持ち,私達もこの商品も糞でーす,と叫んでいる。僕はリモコンの赤外線がモニタの受光部に届くよりも素早く,その見慣れた世界をシャットアウトする。闇と静寂が50インチのテレビだったものに訪れる。
目を閉じる。
もう一度ビールを喉の奥に流しこむ。
味などない。
天井には照明器具がぶら下がり,本来の能力を今こそ発揮するべきだと主張している。僕はLED発光を謳うその名もない照明器具を鼻で笑う。そして再び何も映っていないテレビモニタに目を移す。暗闇の中で更に暗く,吸い込むように黒い。何も映っていないテレビモニタとはとても美しいものだ。ただし微かに映る自分自身の姿には辟易する。それすら覆い尽くす闇を,お前は持つべきではないか。お前はこの世界を映しだすのだろう?ならば闇を,本当の闇を映しだしてご覧よ。
するとテレビモニタは僅かに発光し,生まれて初めて見るような薄暗い青になった。さっきまで照明器具だった頭の上のアイツが,有りがちな緑のレーザーを放ちながら,時にミラーボールのように回っている。
薄青く発光し始めたモニタに,クラゲが現れる。ビールの缶はぷかぷかと浮き,脱ぎ捨てたYシャツは踊るかのように宙で舞っている。僕自身すら,座っていた椅子との関係が希薄になり始めている。この部屋自体が薄青く光り,浮遊し,全てのモノたちがモニタの中のクラゲを眺めている。
クラゲは僕に向かって言う。
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音楽でも聴きなよ。
あはは。
ぼくらはゼラチンみたいなもんだ。ぐにゃぐにゃしている。
光はかんじるよ。でもだからといって特に何もおもわない。下等動物だからね。
なぜ存在するのか,なぜこんな青の中を漂っているのか,僕たちはかんがえない。なにせ下等だからね。いや卑屈になっているわけじゃないよ。この世界のライフストリームに則ってるだけさ。
元照明器具だったアイツがクラゲにレーザーを照射してみせる。クラゲは漂っているだけで,ただされるがままだ。クラゲは全く何もしていないが,様々な色とカタチに変化しているように見える。気づくと僕もぷかぷかと浮きながら,そんなクラゲを眺めている。ビール缶は小さなアンプ管になり,ゆっくりとだが正確な,ベースならではの低音を響かせている。薄青の中でクラゲだけが美しく,時に素早く,だがやはりクラゲならではのペースで,踊るように漂っている。
ぼくらはなにもかんがえない。クラゲだからね。
美しいとかそういうのもわからない。きょうみもない。クラゲってそういうもんなんだよ。
だが君たちはぼくらを見てどう感じてくれても自由だ。好きにすればいい。
ええと,ちなみにぼくらは海の月って言われてる。それは少しいいかな,って思うこともある。
あはは。ちょっと自慢気だったかな。
他のクラゲがどう思ってるかは知らないけれどね。
ただ,基本的にぼくらは何もかんがえないよ。かんがえない。それはクラゲの役割ですらあると自負している。
缶ビールのアンプ管から吐き出される音が,ゆっくりとしたベース音から安っぽいギターサウンドに替わった。ローリング・ストーンズやAC/DCの巨大コンサートにありそうな,王道的照明効果がクラゲを包む。クラゲ自身の動きは相変わらず何も変わらないが,それっぽく見えてくるから不思議だ。聴いたことのあるような分かりやすいリフに包まれ,毒を持つ触手の如くワイルドな一面を見せつけているようにも思える。僕もぷかぷかと,音に合わせてそれっぽく動いてみる。
しらないことってたくさんあるよ。
でもぼくらはそれらにまったく興味がない。クラゲだからね。
かなしいことってたくさんあるよ。
でもぼくらはそれらにまったく興味がない。クラゲだからね。
きみもクラゲになりたいのかい?わるくない。わるくない考えだ。
でもやっぱりはんたいしておくよ。
きみはきみだろ?クラゲじゃないし,クラゲにはなれない。
世界の謎の数々をきみが解けるかはともかくとしても,きみはきみなんだから。
あはは。クラゲに説教されるなんてね。
ぼくらは青の中を漂うよ。それがクラゲだ。くにゃぐにゃしている。
で,ところで,きみはいったい,なんなんだい?
まあ,実際それすら興味はないけれどね。ぼくはクラゲだから。
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真っ暗な部屋に,飲みかけのビール缶が浮いている。ぷかぷかと。
テレビモニタは暗黒を取り戻し,だが僅かに薄青を残している。
浮かんでいるビールを掴み,喉の奥にもう一度流し込んでみる。
生微温い苦味が口の中を襲う。
ところで,ぼくはいったい,なんなんだろう。
僕だってそれすら興味がない。
クラゲが笑っている。きっとあの青の中で。ゆらゆらと。